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MONOSHIRI日本酒日本酒の作り方 ― 並行複発酵という奇跡
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日本酒の作り方 ― 並行複発酵という奇跡

米と水と麹と酵母——日本酒という奇跡を生む「並行複発酵」の正体

一合の日本酒がグラスに注がれるまでには、数十人の蔵人の手と、約2ヶ月間の神経戦が費やされている。洗米から瓶詰まで、その工程は11段階にもおよび、途中には「並行複発酵」という、世界中の醸造酒の中でも最も複雑で高度な発酵現象が静かに進行している。ビールはモルトを先に糖化してから発酵させる「単行複発酵」、ワインはブドウそのものに含まれる糖を酵母が食べる「単発酵」。これに対して日本酒は、米のでんぷんを糖に変える「糖化」と、糖をアルコールに変える「発酵」が同じタンクの中で同時に進むという、きわめて特殊なプロセスを採っている。本稿では、米が酒に変わる奇跡のメカニズムと、それを支えてきた人と技の物語を、工程順にたどっていきたい。

原料はたった4つ——米・水・麹・酵母

日本酒の原料を紙に書き出すと、驚くほど少ない。米・水・米麹・酵母——たったこれだけである。ブドウ、ホップ、ハーブ、スパイス、果実——世界の酒にはさまざまな副材料が入るのに対し、日本酒は極端なまでに引き算の酒だ。

にもかかわらず、蔵ごと・仕込みごとにまったく異なる香りと味わいが生まれる。それは、この4つの要素のどれか1つをほんの少し変えるだけで、最終的な酒質がまるで違ってくるからだ。仕込み水の硬度、米の精米歩合、麹菌の種類、酵母の系統、発酵温度、仕込みの日数——変数は無数にある。シンプルな原料に無数の変数が掛け合わされることで、日本酒の世界には1500を超える酒蔵と無数の銘柄が共存している。

仕込み水は日本酒の約80%を占める最大の原料である。酒造りに使う水は「仕込み水」と呼ばれ、酵母の発酵を左右するカルシウムカリウムなどのミネラル、雑味の原因となる鉄分マンガンの少なさが問われる。灘の宮水、伏見の御香水、新潟の伏流水——それぞれの銘醸地には、それぞれの水がある。

米は「酒造好適米」と呼ばれる、食米とは別系統の特殊な品種が使われる。山田錦、五百万石、雄町、美山錦——いずれも大粒で、中心部に「心白」と呼ばれる白く不透明な部分を持つ。この心白にはでんぷんが疎に詰まっており、麹の菌糸が食い込みやすく、糖化の要となる。

洗米・浸漬——秒単位の吸水コントロール

酒造りは、まず精米から始まる。玄米の外側にはタンパク質や脂質が多く含まれており、これらは酒の雑味の原因になるため、遠慮なく削り取る。日本酒業界では「磨く」と表現し、残った米の割合を「精米歩合」と呼ぶ。純米大吟醸であれば50%以下、獺祭の最高峰「磨き二割三分」では23%——つまり玄米の77%を削り落とす。精米には専用の縦型精米機が使われ、山田錦を50%まで磨くのに約50時間、23%まで磨くには約7日もの時間が費やされる。

精米を終えた米は、数週間寝かせて温度と水分を落ち着かせてから、洗米に進む。ここで米の表面に残った糠を丁寧に洗い落とす。高精白の大吟醸クラスになると、ザルに1.5kgずつ少量単位で手洗いし、ストップウォッチで秒単位の浸漬時間を計る蔵も多い。

続く浸漬(しんせき)は、米に吸水させる工程だ。ここが酒造りで最も神経を使う瞬間のひとつと言われる。わずか数秒の差で吸水率が変わり、その後の蒸し上がり、麹の出来、もろみの発酵がすべて影響を受ける。山田錦の大吟醸クラスでは、30〜40%の吸水率に合わせるため、杜氏がストップウォッチ片手に監視する光景は、日本酒造りを象徴する緊迫の一場面だ。

蒸米——外硬内軟という理想

十分に吸水させた米は、甑(こしき)と呼ばれる大型の蒸し器で蒸される。蒸気を下から通して米を蒸し上げる、この方法は古代から続く伝統的な手法である。

理想の蒸し米は「外硬内軟(がいこうないなん)」。外側はしっかりと固く、中は柔らかく蒸し上がった状態だ。外が硬いと麹菌が食い込みすぎず、米の形を保ったまま発酵できる。中が柔らかいと麹の酵素が中心部まで十分に働き、糖化がスムーズに進む。蒸し時間はおよそ40〜60分。蒸気が米の芯まで通ったら、放冷機手作業で適温まで冷ます。麹用、酒母用、もろみ仕込み用で、それぞれ冷ます温度が違う。

蒸米のおよそ2割は、次の工程「製麹(せいきく)」に回される。

麹——酒造りは一麹・二酛・三造り

蒸米に黄麹菌Aspergillus oryzae)の胞子を振りかけ、麹室(こうじむろ)と呼ばれる30℃前後・湿度高めの部屋で約48時間かけて培養するのが、製麹である。

蔵人の間で古くから語り継がれる言葉がある。

一麹、二酛、三造り。

酒造りの重要度を表したこの三拍子——麹が最も重要で、次が酒母、最後がもろみ造り——は、現代の科学的な酒造論においても変わらず通用している。それほどまでに麹の出来は日本酒の味を決定づける

麹菌は米の表面に菌糸を伸ばし、やがて米の芯まで食い込んでいく。この菌糸が分泌するアミラーゼという酵素が、米のでんぷんをブドウ糖に分解する。つまり麹菌こそが、でんぷんを糖に変える「糖化装置」そのものなのである。西洋のワインにはないこの糖化システムが、日本酒を日本酒たらしめている最大の特異点だ。

製麹は蔵人が数時間おきに麹室に入り、米の温度と湿度を細かく調整しながら進める。夜中も寝ずに手入れを続ける光景は、まさに神経と体力の勝負。優れた麹が出来上がれば、それだけで酒の半分は決まったと言っても過言ではない。

酒母——山廃・生酛・速醸という三つの流派

麹が完成すると、次は酒母(しゅぼ)の仕込みだ。酒母は別名「酛(もと)」と呼ばれ、酵母を純粋に培養した、いわば酒の種菌である。この酒母の出来がもろみ発酵の命運を握る。

酒母造りには大きく3つの流派がある。

| 流派 | 乳酸の入手方法 | 所要期間 | 味わいの傾向 | |---|---|---|---| | 生酛(きもと) | 天然乳酸菌を蔵内で培養。山卸し(米摺り)あり | 約4週間 | 複雑・濃醇・酸味豊か | | 山廃(やまはい) | 天然乳酸菌を蔵内で培養。山卸しを廃止 | 約4週間 | どっしり・旨味濃い | | 速醸(そくじょう) | 市販の乳酸を初日に添加 | 約2週間 | 軽快・クリア・安定 |

最も原始的で手間のかかるのが「生酛」である。人力で蒸米と麹をすり潰す「山卸し」という重労働を行い、空気中や蔵内に存在する天然の乳酸菌を呼び込んで培養する。乳酸が蓄積すると雑菌は死滅し、酸性環境に強い酵母だけが生き残って繁殖する。この自然選抜のプロセスを4週間かけて通過することで、重層的で野性的な味わいを持つ酒母が生まれる。

山廃」は、生酛から山卸し作業を廃止した派生型だ。1909年(明治42年)、国立醸造試験所の研究によって、麹の酵素の力で十分に米が溶けることが明らかになり、重労働だった山卸しを省略できると発見された。味わいは生酛に近い濃醇さを残しつつ、労力を半減させた合理的な手法である。

速醸」はさらに新しい。1910年(明治43年)頃に確立されたこの方法では、最初から市販の乳酸を添加することで、雑菌を素早く排除して酵母培養を短期間で完了できる。所要期間は約2週間——生酛の半分だ。現代の日本酒の約9割はこの速醸酛で仕込まれている。

どの流派を選ぶかは、蔵の哲学と、目指す酒質によって決まる。

酵母——きょうかい酵母という革命

酒母に加えられるのが清酒酵母Saccharomyces cerevisiae)だ。酵母はブドウ糖を食べてアルコールと炭酸ガスに分解する微生物であり、日本酒の発酵の主役である。

明治後期、酒造業界に革命をもたらしたのが日本醸造協会による「きょうかい酵母」の頒布だった。全国の優れた蔵から酵母を採取し、純粋培養して希望する蔵に配る——この仕組みにより、酒質の全国的な底上げが実現した。

| 協会酵母 | 登場年 | 分離元 | 香りの特徴 | |---|---|---|---| | 6号 | 1935年 | 秋田「新政」 | 穏やか、淡麗 | | 7号 | 1946年 | 長野「真澄」 | 華やか、吟醸向き | | 9号 | 1968年 | 熊本「香露」 | リンゴ様、吟醸王道 | | 14号 | 1996年 | 金沢 | 低酸、軽快 | | 18号 | 2006年頃 | 明利酒類由来 | カプロン酸エチル系 | | 1801号 | 2006年 | 協会14×9等 | 青リンゴ香、鑑評会向き |

最古の6号酵母1935年(昭和10年)、秋田の「新政酒造」の醪から分離された。発酵力が強く、淡麗な酒質を生むことから、90年近く経った今も現役で頒布されている。

7号酵母1946年、長野県諏訪の「真澄」で分離。オレンジのような華やかな香りを生み、戦後の吟醸酒発展の基盤となった。

1980年代の吟醸ブームを牽引したのが9号酵母。熊本の「香露」から分離されたこの酵母は、リンゴを思わせる華やかで上品な果実香を放ち、全国の鑑評会で金賞を量産した。

さらに近年では、青リンゴ香の1801号、カプロン酸エチル系の18号など、よりフルーティな香りを生む新酵母が次々と登場。令和の日本酒シーンは、まさに酵母の戦国時代を迎えている。

もろみ——三段仕込みと並行複発酵の神秘

酒母が完成したら、いよいよもろみ(醪)の仕込みだ。ここで、日本酒造りの心臓部である並行複発酵が始まる。

もろみは三段仕込みで造る。これは、蒸米・麹・水を4日間で3回に分けてタンクに投入する手法で、いっぺんに大量を仕込むと酵母の濃度が薄まって雑菌に負けてしまうのを防ぐための、先人の知恵である。

  • 初日:初添え(はつぞえ) ── 酒母に最初の仕込みを追加
  • 2日目:踊り(おどり) ── 発酵を落ち着かせる休息日
  • 3日目:仲添え(なかぞえ) ── 2回目の仕込み
  • 4日目:留添え(とめぞえ) ── 3回目、最後の仕込み
留添えが完了すると、タンクの中では麹の酵素が米のでんぷんを糖に分解しながら、同時に酵母がその糖をアルコールに変える——この二つの反応が一つのタンクの中で並行して進むのが、並行複発酵の核心だ。

糖化と発酵が同じ場所で同時に進むからこそ、もろみ中の糖度は常に低く保たれる。結果として、世界最高レベルのアルコール度数18〜20%という驚異的な数値に、自然発酵だけで到達できる。

ワインのブドウ糖発酵は糖度が先に決まっているため最大14%前後が限界。ビールも同様だ。ところが日本酒は、糖が切らされることなく供給され続けるため、発酵が止まらない。これが、米という穀物から生まれる酒としては異例の高アルコールを実現している理由である。

もろみの発酵期間はおよそ20〜30日間。蔵人は毎日温度をチェックし、必要に応じて冷却・加温を繰り返す。最高気温は10〜15℃程度に抑えることが多く、低温でじっくり発酵させるほど、フルーティで繊細な吟醸香が引き出される。

上槽・火入れ・貯蔵——最終仕上げ

もろみの発酵が完了すると、上槽(じょうそう)で酒と酒粕に分離する。伝統的な方法では「槽(ふね)」と呼ばれる木製の搾り機に酒袋を重ねて圧搾する。最近では自動圧搾機も主流だが、鑑評会出品酒や高級酒は今も手間のかかる袋吊り(無加圧でしずくを集める)などで搾られている。

搾りたての酒はろ過で濁りを取り除き、次に火入れ——60〜65℃で加熱殺菌——を行う。火入れは酵素の働きを止め、雑菌を殺し、酒質を安定させる重要工程だ。室町時代の正暦寺で既に行われていたという記録があり、パスツールの低温殺菌法より約500年も早いという事実は、日本酒史の誇るべき一頁である。

火入れを終えた酒は貯蔵タンクに移され、数ヶ月から半年以上寝かされる。この熟成期間に荒さが取れ、味わいが丸くなる。出荷前に再度火入れして瓶詰するのが一般的だが、生酒(火入れなし)、生貯蔵酒(瓶詰前に1回火入れ)、生詰酒(貯蔵前に1回火入れ)といったバリエーションも存在する。

杜氏——酒造りの総監督

これらの全工程を統括するのが、杜氏(とうじ)と呼ばれる現場の最高責任者だ。伝統的に杜氏は、農閑期の冬に蔵に住み込み、春まで酒造りに専念するという働き方を続けてきた。

日本には「三大杜氏集団」と呼ばれる流派がある。

  • 南部杜氏(岩手) ── 日本最大規模。最盛期の1965年には3200名が所属。硬水仕込みの骨格ある酒が得意。
  • 越後杜氏(新潟) ── 雪国の越後流。きめ細かくマイルドで、淡麗辛口の新潟型酒質を確立。
  • 丹波杜氏(兵庫) ── 1755年に丹波の庄部右衛門が池田の大和屋で杜氏を務めたのが起源。灘五郷を支えた名門集団。
いずれも江戸時代から続く伝統を持ち、流派ごとに技術書と口伝が受け継がれてきた。しかし農業人口の減少と蔵元杜氏(蔵元自らが杜氏を務める)の台頭によって、2000年代以降、伝統的な杜氏集団は急速に縮小している。その代わり、若い蔵元が自ら酒造りの現場に立つ新時代が始まっており、獺祭、新政、而今、十四代——いずれも蔵元自身が酒造りの陣頭に立ち、世界市場へ挑戦を続けている。

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米・水・麹・酵母——たった4つの要素が、洗米から瓶詰までの11段階を経て、並行複発酵という世界最複雑の発酵を通過し、1本の酒になる。そのプロセスは2ヶ月におよび、蔵人たちの神経と手業が細部に宿る。2024年12月、ユネスコは「伝統的酒造り」を無形文化遺産に登録した。ここで守られるべきは、単なる製法ではなく、千年かけて積み上げられた人と微生物の協働の思想そのものだ。次に日本酒を口にするとき、そのグラスの中にどれほどの工程と時間が封じ込められているかを、ほんの少しだけ思い出してほしい。酒の深みは、ただの味の話ではない。それは日本という風土と人の手がかたちにした、生きた文化そのものなのだから。