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MONOSHIRI日本酒日本酒のテロワールと水 ― 風土が醸す一滴
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日本酒のテロワールと水 ― 風土が醸す一滴

灘の宮水と伏見の女酒——水の硬度1つで変わる日本酒の性格

日本酒を構成する原料のうち、80%を占めるのは実は米ではなく、である。どれほど優れた酒米を使い、どれほど熟練した杜氏が仕込んでも、水が悪ければ美味しい酒は生まれない。しかも、水の「良し悪し」は単純な清潔さや硬度の問題ではない。水に溶け込んだわずか数ppmのミネラルの差が、酵母の働きを変え、発酵のスピードを変え、酒の輪郭を変えてしまう。灘の男酒、伏見の女酒——江戸時代から語り継がれるこの対比は、水の性質がどれほど決定的に酒質を支配するかを示す、最も有名な実例である。本稿では、日本酒のテロワール概念、水の硬度と味わいの関係、そして日本三大酒処に流れる伝説の水について、科学と歴史の両面から掘り下げていきたい。

水は日本酒の80%——見えない主役

日本酒を飲むとき、ほとんどの人は酵母に意識が向かう。しかし製造工程全体で見れば、実は水の使用量は米の約50倍にも及ぶ。原料として仕込み水、洗米水、蒸米の水、冷却水、洗浄水——すべて合わせれば、1リットルの日本酒を造るのに50リットル前後の水が必要とされる計算だ。

そして製品の日本酒そのものは、約80%が水である。残り20%のうち約15%がアルコール、残りの5%程度が糖、アミノ酸、有機酸、香気成分——つまり、日本酒を飲むとは、圧倒的に水を飲んでいるということでもある。この事実を直視すれば、「水が酒の善し悪しを決める」という業界の常識が、決して大げさな物言いではないことが理解できる。

酒造に使う水は「仕込み水(しこみすい)」と呼ばれ、蔵ごとに厳格な水質基準が設けられている。以下の要素が重要だ。

| 成分 | 良い仕込み水 | 理由 | |---|---|---| | カルシウム | 多めが望ましい | 酵母の栄養、発酵促進 | | カリウム | 多めが望ましい | 酵母の栄養、発酵促進 | | マグネシウム | 適度 | 酵母の栄養源 | | リン | 多めが望ましい | 酵母の栄養、発酵促進 | | | 極力少なく | 酒を褐色化、不快臭の原因 | | マンガン | 極力少なく | 日光着色の原因 | | 有機物 | 少なく | 雑菌汚染の原因 |

特に鉄分は天敵で、0.02ppmを超えると日本酒は時間とともに褐色に変化し、雑味と呼ばれる金属的な嫌な味を生んでしまう。そのため蔵では水を活性炭ろ過イオン交換で鉄分を取り除いてから仕込みに使うのが一般的だ。

逆にカルシウム・カリウム・マグネシウムなどのミネラルは酵母の栄養源として働き、発酵を活発にする。ただし多すぎると発酵が暴走してしまうため、「適度にある」ことが理想である。このバランスの微妙さが、水の世界を奥深くしている。

硬水と軟水——カルシウムとマグネシウムの話

水の硬度は、1リットルあたりに含まれるカルシウムとマグネシウムの量(炭酸カルシウム換算でmg/L=ppm)で表される。日本の水道水は平均的に硬度50〜80程度の軟水だが、地域や水源によって大きく異なる。

| 区分 | 硬度(mg/L) | 日本酒への影響 | |---|---|---| | 超軟水 | 0〜10 | 発酵が穏やか、きめ細かく繊細な酒 | | 軟水 | 10〜60 | やわらかく丸い味わい | | 中硬水 | 60〜120 | バランス型 | | 硬水 | 120〜180 | 発酵力強い、辛口でキレのある酒 | | 超硬水 | 180以上 | 発酵が激しすぎるため酒造には不向き |

基本的な法則として、硬水ほど発酵が速く進み、辛口でキレのある酒になり、軟水ほど発酵がゆっくり進み、やわらかく芳醇な酒になる。これはミネラル量の違いによって酵母の活性が変わるためで、硬水ではカルシウムとマグネシウムが豊富に酵母に供給されるため発酵が勢いよく進み、短期間でアルコール度数が上がる。一方、軟水ではミネラルが少ないため酵母がゆっくり働き、結果として低温・長時間発酵となり、繊細な香りと味わいが生まれる。

この硬度の違いが、江戸時代から日本酒の産地ごとの個性を決定づけてきた。

灘の男酒——奇跡の水「宮水」の正体

日本酒の生産量全国一を誇る兵庫県・灘五郷(西宮郷、魚崎郷、御影郷、西郷、今津郷)——ここで使われる伝説の仕込み水が、「宮水(みやみず)」である。

宮水が発見されたのは1840年(天保11年)。灘の酒造家山邑太左衛門(現在の桜正宗の先祖)が、自分の酒蔵で醸す酒の味がいつも他の蔵より良い理由を探っていたところ、蔵の仕込み水が西宮の井戸水であることに気づいた——これが宮水発見の伝説だ。以降、灘の他の蔵も挙って西宮の井戸水を使うようになり、西宮から灘五郷まで水樽で運搬する「宮水運搬」が江戸後期から明治にかけて大規模に行われた。

宮水の科学的特性は以下の通り。

| 成分 | 宮水の含有量 | 特徴 | |---|---|---| | 硬度 | 約180mg/L | 日本屈指の硬水 | | カルシウム | 約40〜50ppm | 豊富 | | カリウム | 約40〜60ppm | 極めて豊富 | | リン酸 | 豊富 | 酵母の栄養源 | | 鉄分 | 0.02ppm以下 | ほぼゼロ |

宮水の凄さは、「酵母に必要なミネラルが豊富で、不要な鉄分がほぼゼロ」という奇跡的なバランスにある。カルシウムとカリウムが酵母の発酵を強く促進し、リン酸がさらに栄養を供給するため、発酵が力強く、速く進む。一方で鉄分がないため酒は澄みきっており、色調も美しい。

宮水の発生メカニズムは地質学的にも興味深い。六甲山系から流れる伏流水が、西宮の海岸近くで貝殻層(カルシウム源)や砂層(鉄分をろ過)を通過し、さらに海水の塩分がごく微量混入することで、独特のミネラル組成が生まれる。つまり宮水は「山・貝・海」という三つの自然要素が奇跡的に交差した結果できた水なのだ。

この宮水で仕込まれる灘の酒は、強い発酵の結果として辛口でキレがあり、骨格のしっかりした男性的な味になる。これが「灘の男酒」という呼び名の由来だ。菊正宗、白鹿、大関、沢の鶴、白鶴——灘五郷の名門蔵はみな、この宮水に支えられている。

伏見の女酒——御香水の柔らかさ

灘と並ぶもう一つの大酒処が、京都・伏見である。伏見の仕込み水「御香水(ごこうすい)」は、灘の宮水とは正反対の性質を持つ。

御香水の名の由来は、862年(貞観4年)、この地に「りのよい水が湧き出した」という伝承に遡る。清和天皇が名付けたとも伝わる古い水源であり、現在も伏見区の御香宮神社の境内で湧き出している。この水は環境省の名水百選にも選定されており、京都の人々にとって霊験ある名水として親しまれてきた。

| 成分 | 御香水の特徴 | |---|---| | 硬度 | 約80mg/L(中硬水) | | カルシウム | 適度 | | マグネシウム | やわらかい | | 鉄分 | 少ない | | | まろやか、丸い |

御香水は硬度80前後の中硬水で、宮水に比べるとミネラルが少なく、水そのものがやわらかく口当たりが良い。この水で仕込まれる酒は、発酵がゆっくり進むため、まろやかで口当たりの良い、ふくよかな味わいになる。これが「伏見の女酒」と呼ばれる所以だ。月桂冠、松竹梅、黄桜——伏見の名酒はみなこの女性的なしなやかさを身上にしている。

「灘の男酒、伏見の女酒」——この対比は、単なる文学的表現ではない。水の硬度という科学的に測定可能な指標が、酒の性格を根本から変えているという、実証可能な現象なのだ。江戸時代の職人たちは、分析機器などない中で経験的にこの事実を見抜いていた。それは酒造りが5感による科学として千年以上の蓄積を持ってきた証拠でもある。

新潟の軟水と淡麗辛口——雪国の水の物語

第三の酒処、新潟県。1994年に全国清酒生産量で灘・伏見に迫る3位の座を獲得し、現在も全国3位を維持する酒どころ新潟の酒造りを支えているのは、軟水である。

越後山脈に降り積もった豪雪が融け、長い時間をかけて山肌を伝わり、地下に染み込む。この長大な伏流水脈を地下からくみ上げたのが、新潟の酒蔵の仕込み水だ。新潟県内の湧水の多くは硬度30〜60前後の軟水であり、ミネラル分が少なく、鉄分もごくわずかである。

| 地域 | 代表蔵 | 水の硬度 | 味わい | |---|---|---|---| | 魚沼 | 八海山、鶴齢 | 30〜50 | 淡麗、すっきり | | 長岡 | 久保田(朝日酒造) | 40〜60 | 淡麗辛口の王道 | | 上越 | 越乃寒梅(石本酒造) | 40〜50 | 芳醇・含み香 | | 柏崎 | 八海山、大洋盛 | 30〜50 | 透明感、後味軽快 |

軟水での酒造りは、発酵がゆっくり進む分、酵母の過剰な働きを抑えられ、結果として香りが穏やかで、味がきれいに整う。新潟の酒が持つあの「淡麗辛口」という味わい——飲み口が軽く、後味のキレがよく、いつまでも食事に寄り添う——は、この軟水の特性と、雪国の低温発酵環境が組み合わさって生まれたものである。

面白いことに、新潟の淡麗辛口という概念そのものが、比較的新しいものだ。1980年代以前、新潟の酒は「甘口で重たい」という評価が一般的だった。それが1980年代末の地酒ブームの中で、久保田・八海山・越乃寒梅といった銘柄が「淡麗辛口」を前面に押し出し、飲み飽きせず食事に合う酒として全国に認知されるに至った。水の特性が変わったわけではなく、蔵元たちが水の個性を再解釈して活かした結果、新潟型酒質が確立されたのである。

広島の軟水醸造法——失敗から生まれた革命

新潟とは別の文脈で、軟水から世界的銘酒を生み出した地域がある。広島県西条——日本酒の「三大酒処」の一つに数えられる、中国地方の銘醸地だ。

広島の水は、新潟以上の超軟水で、硬度はわずか10〜30程度。これは酒造りには不向きとされてきた水質だ。カルシウムもマグネシウムも極端に少ないため、酵母の栄養が不足し、発酵がうまく進まない——実際、明治時代の広島の酒は「腐造(発酵失敗)が多く、保存がきかない」と酷評されていた。

ところが1898年(明治31年)、広島県の酒造家三浦仙三郎が、この弱点を逆手にとった画期的な醸造法を確立する。それが「軟水醸造法」である。

軟水は発酵が遅いからダメなのではない。発酵が遅いからこそ、じっくりと香りを引き出せる。

三浦はこの発想のもと、軟水特有の性質を活かして低温長期発酵を徹底し、きめ細やかな吟醸香を引き出す醸造法を体系化した。結果として広島の酒は、芳醇で香り高く、まろやかな口当たりという独自の個性を獲得し、全国にその名を轟かせた。

広島の軟水醸造法は、後に吟醸造りという現代日本酒の主流技法の直接的な原型となる。つまり全国の大吟醸・純米大吟醸の源流は、実は広島のあの超軟水から始まっているのだ。現在、広島が吟醸酒の聖地と呼ばれるのは、決して偶然ではない。

雪国の発酵環境——標高と気温の隠れた役割

水だけでなく、気温と標高もテロワールを構成する重要な要素だ。日本酒の発酵は10〜15℃の低温環境で行うのが理想とされ、特に吟醸造りでは5〜10℃の極低温が求められる。雪国の蔵が優れた吟醸酒を産む背景には、自然に提供されるこの低温環境がある。

新潟、秋田、山形、岩手、福井——雪国の蔵では、11月から3月にかけての厳寒期に酒造りを行う。蔵内温度が自然に5〜10℃に落ち着くため、特別な冷却設備なしで低温発酵が可能だ。冷却コストも最小限で済む。逆に温暖な西日本の蔵は、発酵タンクを冷却するための電気代と設備投資が必要になる。

昼夜の温度差も酒米の質を左右する。兵庫県三木市(山田錦の特A地区)、長野県諏訪地方(美山錦の産地)、秋田県横手盆地——いずれも昼夜の温度差が10℃以上あり、この寒暖差が心白の発現と米の充実を促すと言われる。

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水の硬度、地質、気温、昼夜の温度差、雪解け水の伏流——これらすべてが絡み合って日本酒のテロワールを形作っている。灘の宮水が生む男酒、伏見の御香水が生む女酒、新潟の軟水が生む淡麗辛口、広島の超軟水が生む芳醇な吟醸酒——それぞれの地の酒は、その地でしか生まれない。1840年の灘の山邑太左衛門が発見した宮水、862年に伏見で湧き出した御香水、1898年に広島の三浦仙三郎が確立した軟水醸造法——これらの物語の一つ一つが、日本酒という飲み物に地理的な深みを与え続けている。次に日本酒を飲むとき、その酒がどの土地のどんな水で仕込まれたのかを想像してみてほしい。一合の酒の中には、一つの土地の地下水脈と、千年の歴史が封じ込められているのだから。