ササニシキ
「うちの店ではササニシキしか使わない」——銀座や築地界隈の高級寿司店を訪れると、今でもカウンターの向こうから、この言葉をつぶやく職人に出会うことがある。スーパーの棚から姿を消して久しいこの品種が、なぜプロの料理人たちには熱烈に支持され続けているのか。その答えは、現代の米市場が選ばなくなった、ある「美徳」の中にある。
1963年、宮城が生んだ東の横綱
ササニシキが誕生したのは1963年(昭和38年)、宮城県立農業試験場古川分場——現在の古川農業試験場である。交配が始まったのはその10年前、1953年のこと。当時の育種家は「ハツニシキ(奥羽224号)」を母、「ササシグレ」を父として組み合わせた。父母二つの名前から一文字ずつ取って「ササニシキ」と命名された、ストレートで誇り高い命名だ。水稲農林150号として正式に登録された瞬間、宮城の米の歴史が書き換わった。
デビュー後のササニシキは、瞬く間に東日本を席巻した。コシヒカリが西の横綱なら、ササニシキは東の横綱。1980年代には作付面積で全国2位を記録し、ピーク時の1990年(平成2年)にはコシヒカリと並ぶ「二大品種」として日本の食卓に君臨していた。
今では信じがたいかもしれないが、1970〜80年代のテレビCMやおにぎり屋の看板には、「コシヒカリかササニシキか」という二者択一が当たり前に掲げられていた。年配の世代に話を聞けば、「昔はササニシキの方が好きだった」「実家はササニシキ一択だった」という声が案外多く返ってくる。西と東で好みがくっきり分かれていた時代——それが、日本の米市場の豊かさでもあった。
1993年、運命を変えた冷夏 — 一夜にして王座から転落
ササニシキの凋落は、ある一つの夏から始まった。1993年(平成5年)、東北地方を襲った記録的冷夏である。
この年、東北の平均気温は平年を大きく下回り、稲の登熟期にあたる8月の日照時間はわずか平年の半分以下という地域もあった。寒さに弱いササニシキは耐冷性が決定的に不足しており、東北一帯で壊滅的な打撃を受ける。田んぼに実るはずの穂がスカスカのまま稔らず、収量は平年の数分の一にまで落ち込んだ。日本全体の作況指数は74、東北地方に至っては56まで下落した。
その結果、日本政府はタイ・アメリカ・中国から総計約259万トンの米を緊急輸入する。あの「平成の米騒動」である。米売り場から日本米が消え、配給制のようにタイ米と日本米がブレンド販売される異常事態に、国民は大きな衝撃を受けた。
冷害のリスクを目の当たりにした東北の農家たちは、雪崩を打ってより耐冷性の高い品種へと切り替えていった。その受け皿になったのが、まさにこの年の前に登場していた「ひとめぼれ」と「あきたこまち」である。皮肉にも、ササニシキの弟分として古川農業試験場で育種されたひとめぼれが、ササニシキの座を奪う形になったのだ。
現在、ササニシキの全国作付面積はピーク時の数十分の一、全国シェアで言えば1%前後にまで落ち込んでいる。統計上は「ほとんど絶滅状態」と書かれることさえある。
米騒動は日本の食卓を変えた。タイ米の味を覚えた世代も、冷害で覇者を失った東北も、あの夏から何かが戻らなかった。
アミロース約20%の美学——寿司職人が今も指名する理由
それでも、一部の寿司職人や和食料理人はササニシキを頑なに使い続けている。そこには、現代の粘り至上主義の米市場では語られない「あっさりの美学」がある。
ササニシキのアミロース含有量は約20〜23%。コシヒカリやひとめぼれが17%程度、ゆめぴりかに至っては15%以下——これらと比べると、ササニシキは明らかにアミロースが高い。一般に「アミロースが低いほど粘りが強く美味しい」というのが現代の常識だが、寿司の世界ではその常識が逆転する。
ササニシキの特徴を寿司との関係で整理すると、以下のようになる。
- 粒と粒が適度に離れる:握った瞬間の空気感を残し、口の中でほろりとほどける
- 酢の吸い込みが良い:シャリ酢を均一に吸い、べたつかない
- ネタとの分離感:粘りが控えめゆえ、ネタの繊細な味が米に埋もれない
- 冷めても硬化しない:カウンターで時間が経っても、口溶けが損なわれない
消化にやさしい米——「隠れた健康食」としての再評価
近年、ササニシキは別の角度からも注目されている。消化にやさしい米としての再評価である。マクロビオティックや玄米食の愛好家、胃腸の弱い人、アレルギー体質の家族を持つ世帯——こうした層が、あえてササニシキを選び直す動きが少しずつ広がっている。
理由の一つは、交配の系譜にある。ササニシキは1960年代の品種であり、現代の低アミロース米のように、突然変異や特殊な交配で作られた系統ではない。昔ながらの在来米の性質を色濃く残しており、もち米系統の遺伝子が混じりにくい「うるち米らしいうるち米」なのだ。粘りが弱い分だけ、デンプンの分解が穏やかで、食後の胃もたれが少ないという声も多い。
明日の食卓で「あっさりの王道」を試す
ササニシキを自宅で炊くなら、水加減は通常よりわずかに多めに。浸水は60分しっかり取る。炊き上がりはほぐしすぎず、粒を潰さないように切るように。和食——特に焼き魚、煮物、漬物——との相性は抜群で、濃い味付けのおかずよりも、出汁の効いた優しい料理と組み合わせた時に真価を発揮する。
買い方のコツ:宮城県登米産、大崎市古川地区などがササニシキの本場。袋に「平成・令和の米騒動後も守り抜いた」というストーリーを持つ生産者の名が記されているものを選ぶ。自然栽培や有機JAS表示のある商品は、特にこの品種の美学と相性が良い。
失われかけた「あっさりの美学」——それを明日の食卓で一度体験してみる価値は、十分にある。箸を入れた瞬間にぱらりとほどける粒の感触、噛んだ後に追いかけてくる穀物の甘み、そして飲み込んだ後のすっきりした後味。「ああ、これが祖父母の食べていた米か」と、時の向こうに繋がる一口が、茶碗の中に確かに存在する。